高校時代 sanbuichi-koji, 2024年4月7日2024年5月12日 「ぶいちの毎日」は何があっても毎日更新するので、ネタが尽きないように小出しにしていきますが、自分自身の若い頃のことも振り返りますシリーズ・その1は、高校生時代。 当時から多分好奇心が旺盛だったので、勉強だけに集中してなかったんだと思います。短期集中型で、試験前に一夜漬けでやるタイプ。徳山高校に入学して最初の中間試験の成績が500人中80番、ただし、それ以降3年間で一回もこの順位を超えることはなく、2年からは理系と文系に分かれるのですが、自分は数学が得意だったので理系だと思って数Ⅲ、物理や化学も選択して勉強したものの、高校3年の文化祭終了を機に志望を理系から文系に変えるという、いわゆる「文転」をしてしまって、その後の浪人生活に傾れ込んでいくのでした。 徳山高校の特徴は、進学校なのに『運動会』と『文化祭』が異常に盛り上がること。今山口県内の進学校で、運動会と文化祭を盛大に開催している学校は他にないはずです。狂気を演じられるのは知性!という言葉がありますが、まさに「やる時はやる!勉強もするけどバカにもなれる」のが徳高生の真骨頂です。 当時はカメラなんかまともになかった時代なので、運動会や文化祭の写真が本当に無い! なぜこの写真があったのか不思議ですが、自分的にはすごく貴重な写真。徳山高校の運動会には、当時『逆立ち競争』という、全校男子生徒の自由参加で、逆立ちで歩ける距離を競うという種目がありました。どうしてもこの種目に出たくて、毎日家で手の皮がボロボロになるまで練習して、結局3年最後の運動会で出場し、全校で10番に、でもこの写真が無かったらそれすら覚えてなかったかも…。 しかもこの写真のワタシ、学校指定の白いジャージジャなくてアディダスの3本線を履いてます。当時から目立ちたがりだったのかも・・・。 運動会といえばもう一枚、 徳高名物の運動会アーチです。徳山高校のアーチを見れば世相がわかる!まさに当時、「ツッパリ」という言葉や学ラン長ランが流行っていた頃、徳高生は基本的に真面目な生徒が多いのですが、我が黄組は全校の不真面目を寄せ集めたようなチームだったのです。ここでもワタシ、一番前のど真ん中で「アイーン」をしています、恥ずかし! さてそんな運動会が終わった僅か1週間後、文化祭である『徳高祭』です。 当時私は、中学の同級生で徳高以外の同級生たちとバンドを組んで活動していたのですが、どうしても徳高の文化祭のステージに立ちたかったので、仲間を寄せ集めて急造バンドを作りました。バンドの名前は『ピップエレキバンド』、コミックバンドか!中には楽器をまともに弾いたことがない同級生もいたので、ギターやベースの弾き方、ドラムの叩き方も私が教えながら。 演奏した楽曲は、甲斐バンドの「らせん階段」「テレフォンノイローゼ」「安奈」アリスの「狂った果実」沢田研二の「恋のバッドチューニング」と、5曲で約20分のステージでした。徳高の満員の体育館でのステージは、やっぱり気持ちよかった〜! 実はこのステージ直後に、私はもう一つのステージ『徳高フォーク村』という、別会場のアコースティックな構成のステージにも出場しました。そのフォーク村でのデュオを組んだ友達は、今や山口県の脳神経学会でその人ありと言われているながみつクリニック(防府市)の長光勉君で、拓郎や甲斐バンドのコピーを演奏しました。こちらの方は写真が一枚も無いのですごく残念。 当時、体育館でのバンドのステージとフォーク村のステージ両方に出演することで生徒指導の先生と喧嘩をし、結局両方のステージに出られたのだけど、先生の杓子定規な対応に猛烈に私の「心の何か」に火がついて、『本当に生徒のことを考える先生にワシがなっちゃるんじゃ〜!』と思って前述した『文転』につながったのです。 波瀾万丈の高校生活でした。 三分一幸治について