今日のは超、長文です。 sanbuichi-koji, 2024年6月3日2024年6月3日 一昨日、旧日本海軍の極秘施設のBLOGを書きましたが、それに関連した記事を過去に書いたことがあるのを思い出しました。これは定期的に伝えて行くべき内容なので、その記事をここに転載してみます。ただし、ものすごい長文なので覚悟してください(笑)。私は徳山高校の同窓会報「岐山会報」の編集委員をやっておりまして、2016年に取材して書いた渾身の記事ですので、現在はお亡くなりになっていらっしゃる方のお名前も出てきます。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 学徒動員の体験を次世代に伝えたい想いで 昨年の岐山会報で有楽ホテルを経営する徳女33期の河村トミエさんを取材した際、徳山高等女学校時代には学徒動員で大変な体験をされたというお話を伺いました。また、B29の徳山大空襲の時には女学生は必ず防空壕に逃げ込むことになっていて、その防空壕は遠石八幡宮の地下だったということを聞き、戦後生まれで子供の頃から遠石八幡宮の境内で遊んでいた私は「八幡宮のどこに防空壕があったんだろう?」という疑問を抱かずにいられなくなっていました。 そして昨年10月の下松岐山会に出席されていた徳女33期の竹本貞子さんに、「遠石八幡宮の防空壕の場所を覚えていらっしゃったら現地でお話を伺えませんか?」という私の無理なお願いに快諾してくださいましてこの日の取材が実現しました。 7月13日、竹本さんと女学校時代の同級生で、今でも仲良くされている藤井待子さん(光市在住)、佐伯律子さん(周南市在住)も一緒に来てくださるということで、遠石八幡宮の駐車場で待ち合わせです。 徳女33期というと昭和4年生まれになりますが、みなさん背筋がピンと伸びてとてもその年齢には見えません。岐山会に毎年参加される徳女の先輩方は、本当に元気な方が多いので「なんでだろう?」と思っていましたが、女学校時代のお話、特に戦時中の長きに渡る学徒動員体験で心身ともに鍛えられたことがベースになっているんだなと確信しました。空襲で焼失した校舎を自分たちで造ったのですから。 まずは女学校時代の壮絶な学徒動員のお話から伺いました。 一番多感な女学生時代を学徒動員で生き抜いて 当時義務教育は633制ではなく、小学校を卒業して進学する男子は5年制の徳山中学校、女子が4年制の徳山高等女学校に進学で、男女の交流は一切無かったそうです。当時は徳山高等女学校は県下でも有名な進学校で、肩から下げるカバンや制服の白い襟、肩の刺繍が憧れの的だったそうです。ところが竹本さんたちが徳女に通った時代は戦時中だったので、2年生の時には出征で男子の無い家の稲刈りを手伝ったり田植えを手伝ったり。女学校に入ったら英語が習えると思って楽しみにしていたけど戦時中は英語を使ったらいけないという通達で次第に英語の授業も無くなったそうです。実際に学校で勉強をした記憶はほとんど無いそうです。 学徒動員は3年から終戦を迎える4年の8月まで。数ヶ所ある工場に振り分けられて最初の燃料廠での仕事は石油缶を造ること、そして造ったドラム缶を転がして上に積み上げていくのです。15歳の少女がドラム缶を抱えて積み上げていく姿はちょっと想像できない感じですが、当時の徳女の生徒は毎日この作業をしていたのです。 そして次第に戦局が悪化して徳山にもB29がやってきます。米軍は徳山の燃料廠のタンクが満タンになっているか空かということもみんな分かっていたそうです。爆弾を落とされて大爆発した後のタンクに残っていた石油を掬ってドラム缶に移し、それを上陸用船艇に載せて下松の洲鼻の松林に疎開させることにも女学生は駆り出されたそうです。 空襲警報が発せられると女学生はすぐに遠石八幡宮の防空壕へ逃げろ!という指示が徹底していて、空襲で犠牲になった女学生はいませんでしたが、竹本さんは逃げる途中でB29の護衛機に機銃掃射に遭った(着弾した音がすごかった)という体験も話されました。 藤井さんと佐伯さんは燃料廠の東門(現在の遠石小学校の向かい側)の工場から八幡宮の防空壕へ避難し、その後一旦は東門に戻ったそうですが、まだ女学生は入ってはいけないと無理矢理遠石八幡宮の防空壕に戻されました。東門の工場内にも防空壕があったのですが、直後の空襲でその防空壕に爆弾が直撃して中の作業員は全滅したそうです。実際に徳山中学校の学徒動員の男子生徒は4名が犠牲になっています。当時燃料廠には徳山中学校の男子の学徒動員や徳山高等女学校の女学生の学徒動員の他に、女学校を卒業した女子が『挺身隊(ていしんたい)』として従事することが義務付けられていて、挺身隊で工場に残っていて防空壕で犠牲になられた方もいらっしゃいました。 食べるものもない時代に、毎日毎日重たいドラム缶を抱えるのが15歳の仕事なのですから今では想像もつきませんが、3年から終戦を迎える4年の8月までは毎日燃料廠での仕事に従事されたのです。そして戦争が終わって学校に帰ってみると校舎が全部焼けて何も無い、それからは校舎を建てるための仕事です。 終戦で暁部隊(今の競艇場の場所に駐屯していた陸軍部隊)の宿舎の建物を解体した材木をもらって女学校の校舎を造るので、毎日材木を二人ひと組で女学校まで運んだそうですが、櫛ヶ浜から6キロ以上の距離を重たい材木を抱えて毎日往復したのです。 この写真は記録に残っている「終戦後の徳山高等女学校建設」の風景ですが、まさにこの校舎建設のための材木は暁部隊の兵舎の材木を女学生自らが運んだものとわかると、また見方も変わってきます。徳女の戦争を経験した方々が今でもお元気な理由が少し垣間見れるような気がします。 今は全く残らない遠石八幡宮の防空壕跡 さて、徳山高等女学校の学生生活のほとんどが学徒動員だったこと、二度の徳山大空襲を体験した事をお聞きし、実際に避難した場所である遠石八幡宮の防空壕があった場所を見てみました。 「八幡宮に上がる坂の途中だったと思うんだけど…」70年前の記憶を頼りに付近を歩いてもらいましたが、それらしい跡はどこにも見当たりません。ちょうど遠石八幡宮の名誉宮司で岐山会会長の黒神公直さんのお宅の玄関の正面付近です。竹本さんは黒神会長とは徳山小学校の同級生ということなので、ここはひとつ黒神会長に直接お伺いしてみようと思い、お宅に伺いました。突然お邪魔したにもかかわらず、「防空壕があったことなら覚えていますよ、とりあえず上がって下さい」とお宅で話を伺うことになりました。 黒神会長も徳中時代は学徒動員で燃料廠の工場の中でドラム缶を転がしていたそうです。防空壕があったことは戦後に人から聞いて知ったそうですが、「あれは防空壕というより燃料を入れたドラム缶を備蓄するための貯蔵庫の目的で造られたと思いますよ。ただドラム缶でいっぱいになった事は無かったと聞いています。ちょうどこの山にトンネルを『コの字』に掘るカタチで入り口と出口があったはずです。戦後、残っていたドラム缶は、いつの間にか無くなっていたようですよ。」 黒神会長のお話と実際に防空壕に避難した竹本さん、藤井さん、佐伯さんの記憶を総合すると、上の写真に記した場所に当時の女学生が避難した防空壕があったと思われます。 遠石八幡宮に隣接する現在の周南市の東緑地公園は当時は国の土地で、資料によると直径88メートル、高さ11メートルの巨大なコンクリート製の石油タンクが地下に12基建設され、計画ではあと4基建設される予定だったところで中止、地下タンクと海軍燃料廠は地下のパイプで繋がっていたそうです。50万トンの石油が貯蔵できるタンクはほぼ野球場の広さと一緒です。写真の資料もわずかしか残っていないので正確な地下タンクの場所は分かりませんが、東緑地公園には現在野球のできるグランドが数ヶ所あり、ほぼ地下タンクの大きさと同じことから、タンクを撤去し埋め立てた場所がそのままグランドになったと想像できます。 それにしても、この航空写真でもわかるように、海軍燃料廠と大迫田に建設された地下石油貯蔵タンクを結んだ線上に遠石八幡宮があります。戦時中、貴重な石油の備蓄場所が神様に守られていたということは決して偶然では無いような気がします。 そして遠石八幡宮の敷地内にも設けられていたドラム缶の備蓄庫が学徒動員の女学生の避難場所となり、多くの女学生の命を救ったのです。 次世代に伝えるために 徳山は海軍燃料廠があった関係でB29の空襲を二度も被り、尊い命や街が焼失しました。我々の先輩方も学徒動員として戦争に巻き込まれ壮絶な体験をされています。今回の取材で三名の徳女の先輩に当時のお話を伺いましたが、ご自身のお子さんたちにも戦時中の話は語った事が無いそうです。 私たちはコンビナートのある街に生まれ、野球場や陸上競技場、テニスコートなどが綺麗に整備された運動公園を日常の一部として生活していますが、わずか70数年前の我が街に起きた出来事すら知らずに過ごしています。岐山会という同窓会がある以上、同窓生の歴史はきちんと伝えていきたいと思いますし、特に現役の徳山高校の生徒には学徒動員の体験談は聞かせる機会を作りたい、実際に体験した先輩の口から伝わるような機会を作ってあげることが私の次の目標です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー と、ここまでが8年前に取材して書いた記事です。私は毎年岐山会報に自分の独自の視点で企画したり取材をして数多くの記事を書いてきました。こういう同窓会の広報紙は、時間が経つにつれて必ず「残しておいて良かった、毎年苦労して作っていて良かった」となるものです。ただ、この徳山高校の同窓会報もコロナで中断し、再開は難しくなりそうで、この無念さは携わった者にしかわからないと思います。 日々の感想 過去を振り返って